伊豆石とアメリカ合衆国

伊豆石とアメリカ合衆国

アメリカ合衆国の東アジア進出の第一歩となった下田開港・日米和親条約の締結の記念に送られた「伊豆石」はペリーの黒船艦隊にとっても、アメリカ合衆国の記念すべきマイルストーンとなった。この贈呈された「伊豆石」はワシントンのポトマック河畔に、1885年(明治20年)に建てられた。

伊豆石、マイルストーンになる

日米友好の記念としてペリーが持ち帰った伊豆石が、ワシントン記念塔に残されている。この伊豆石には「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出ず」の文字が彫られている。

アメリカ合衆国にとって太平洋航路開設は清国や東アジアに進出するための重要な取り組みであった。鎖国を続ける徳川幕府に対し、国際航路のための港を強引にこじ開けたのはペリーの功績であった。下田開港から3年後、横浜、長崎、箱館を自由貿易港として開いた。この下田開港はアメリカにとっては東アジア進出のマイルストーンであった。

このとき、ペリーが記念に持ち帰った伊豆石は偉大なマイルストーンになった。

「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出ず」、この文字を書いたのは下田奉行支配組頭の伊佐新次郎であった。奉行所からペリーらに贈られた物品の控え帳に花ござ、長刀、槍、青石などが記録されている。この青石が伊豆石になる。

この記念の石の要請はヘリー艦隊出港の6月1日の半月前であった。指定の大きさに石を切り出し、その石に年号と場所を彫り込み、引き渡すにはギリギリの時間であった。伊佐が揮毫し、彫り込まれた伊豆石はポーハタン号に積み込まれ、太平洋を横断しアメリカ、ワシントンの記念塔にはめ込まれた。そして今でも日米友好・親善の証となり、アメリカ名所として多くの人々が訪れている。

ただ、この石贈呈が日米友好の公式の歴史として知られていない。アメリカでは永久記念物としてポトマック河畔のワシントン記念塔に残されている。このように、マイルストーンになることを幕府幕臣たちや下田奉行の旗本たちは理解していなかったためである。

この伊豆石の贈り物の意義について、伊佐新次郎は深い見識による理解から、限られた時間で伊豆石を切り出し、年号と産地を揮毫し祝いの気持ちを込めた寿の崩し字を書き込んだ。

嘉永甲寅(1854年)6月1日、下田港を出帆するポーハタン号に積み込まれた。

〔「伊豆石」がはめ込まれる〕

この記念塔にはアメリカ各地、エジプト、ギリシャ、中国など世界各地から集められた石材が使われ、内部階段の壁面、下から65mの位置に有り、大きさは90㎝四方の大きさである。(静岡県立図書館しらべ)

日本から贈呈された「伊豆石」には「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国より出ず」とあり、揮毫したのは下田奉行組頭の伊佐新次郎であった。

ヨーロッパ列強に対抗し、その出遅れを取り戻すためには太平洋航路の確保はアメリカ合衆国にてって最重要課題であった。アメリカでは大陸横断鉄道が東海岸と西海岸をつなげ、経済活動も大陸全体に広がった。機械化による国内製品が拡大し、その輸出先の開拓も迫られていた。サンフランシスコ港と日本の港をつなぐ太平洋航路の確保に日本の鎖国策をいかに打開するか、ペリーの来航は命をかけた江戸湾侵入の強攻策であった。この頃、徳川幕府は攘夷論が主流になり、諸藩が日本の海岸防備を進めるなかで、幕府の喉元である江戸湾に深く侵入したのであった。このペリーの来航による日米和親条約の締結はアメリカ合衆国の東アジア進出への第一歩であった。

〔伊豆石と下田まち遺産〕

「伊豆石」は徳川幕府の江戸開府のため、多くの伊豆石を運び、江戸のインフラの整備を進めた。特に江戸城は天下普請による城壁が伊豆石でつくられた。下田港は江戸に入る太平洋沿岸航路の関所として、船の風待ち港として賑わった。港の周囲には廻船問屋、網元などの伊豆石でつくられた石蔵がつくられた。

嘉永5年(1,853)ペリーの黒船艦隊が浦賀に来航し、開国を迫る。翌年3月、日米和親条約の調印し、下田、函館が開港する。下田条約を下田・了仙寺で調印し、来 港する外国船に食料や水を提供する。この初めての貿易の実務を担当したのが下田奉行組頭の伊佐新次郎であった。1856年、タウンゼント・ハリスが米国領事として下田・玉泉寺に着任。江戸幕府の開国にいち早く対応した下田港には欧米の新しい文化が入ると共にアメリカ合衆国にとっても念願の太平洋航路の開拓と東アジアへの進出の一歩となるマイルスストーンを築いた。 現在、下田市では「下田まち遺産」として幕末期にちなむ伊豆石の構築物の保存活用を進めている。しかし、伊豆石の倉庫や塀の多くは既に取り壊され、残された伊豆石の構築物を歴史の証人として、市民の共有財産として残す取り組みを進めている。

幕臣 伊佐新次郎について

明治維新を生きた幕臣で、日本の歴史に残る大事件である「ペリー提督日本遠征」で日米和親条約締結後、条約の細目を決定するため、ペリーが下田(現静岡県下田市)へ来港時に、下田奉行支配組頭(副奉行格)に任ぜられ、ペリーが下田滞在中はずっと関わり、ペリーの部下たちとも協議し、条約(下田条約)を締結し、日本が開国となった直後の下田で、黎明期の外交の実務責任者として、アメリカ、ロシア、フランス等の軍艦や商船と交渉をし、日本の初期外交で大活躍した人物であった。『幕臣 伊佐新次郎』浅井保秀著より

幕府の瓦解と共に江戸を離れた伊佐は駿河に移住し、東海道藤枝宿の旅籠、柿傳楼を定宿とした。明治九年まで教育家、書家として、外国との貿易事情を知る唯一の人として地元茶農家達の横浜貿易のアドバイスを続けた。伊佐の書を見た志太郡高田村の常楽院和尚は感激し、その書の勢いは竜が天に駆けるごとくであると近隣に紹介した。寺院の襖や祭りののぼり旗に伊佐の書を求め、村々の競い合いになる。駿河の国志太郡の田中城城主として移住した高橋泥舟と共に教育活動と牧之原開拓仲間の相談役として働く。藤枝宿では草書の研鑚を続け明治6年『草訣百韻歌』を書いた。しかし伊佐は幕末期における幕臣としての働きについて話すことはなかった。明治九年に新政府の密かな監視活動が解かれたことを確認すると牧之原開拓団の住む初倉村谷口原(現静岡県島田市)に引っ越した。

〔下田と藤枝と伊佐新次郎〕

駿州志太郡、大井川の東側地域は幕末期より高級煎茶の産地化が進み、横浜貿易が始まると「JAPAN TEA」のブランドで輸出第1位の名誉に輝いた。藤枝宿周辺地域の高品質の煎茶は下田奉行支配組頭の伊佐新次郎の働きにより横浜貿易の主役となった。横浜貿易の拡大とともに藤枝では茶を貯蔵する耐火性の蔵が必要となり、伊豆より運ばれた伊豆石で倉庫も作られた。この石の蔵は現在も残り、近代産業遺産の歴史を語っている。

〔伊豆石と伊佐新次郎〕

アメリカ合衆国の東アジア進出の第一歩となった下田開港・日米和親条約の締結の記念に送られた「伊豆石」はペリーの黒船艦隊にとっても、アメリカ合衆国の記念すべきマイルストーンとなった。ペリーの強引な開国交渉は江戸幕府の重臣達を大混乱に陥れた。ペリーとの外交交渉は重責のために、その役職は大名や力のある旗本クラスであるが、外国との交渉経験のない老中達はその失敗による失脚を恐れた。そこで江戸に住む食録も無い下級の幕臣であった伊佐新次郎を抜擢した。下田奉行組頭としてペリーの担当をした伊佐の対応力はペリー達に信頼され、江戸幕府との交渉も予想以上の成果をもたらした。この開国記念に日本から贈呈された「伊豆石」はワシントンのポトマック河畔に、1885年(明治20年) ワシントン記念塔にマイルストーンとして埋め込まれたのであった。この「伊豆石」には「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国より出ず」とあり、揮毫したのは下田奉行組頭の伊佐新次郎であった。

〔伊豆石とは〕

伊豆石とは伊豆半島で産出する石材のことで、2種類あり、硬いほうの伊豆石(安山岩系の真鶴石、小松石、根府川石)と軟らかいほうの伊豆石(凝灰岩系の伊豆青石、沢田石、長岡青石、若草石)がある。伊豆青石は風呂用建材として使用され、水に濡れると緑色になり人気がある。この石材は加工しやすく城壁石、建材、墓石に、中世から近世において多く使用された。この石材は現在、石切場が残され、伊豆石の遺構も残り少なくなっている。