藤枝の商圏とお茶の歴史

藤枝の商圏拡大

藤枝は田中藩の城下町として、東海道の宿駅を兼ね、繁栄しました。

殊に大正13年から数年を費やして完成した滝沢〜桑ノ山を経て沢間に至る索道は、東海事業会社をはじめ、その他の発電所、大井川鐵道の建設資材を運びました。それは川根の産物の搬出と需要品を搬入する一部の大井川舟運の顧客を奪うと同時に、藤枝商圏の拡大に貢献し、昭和3〜5年頃には全盛時代を謳歌しました。

策動時代の藤枝商圏 「大井川とその周辺」(1972年 浅井治平著より抜粋)

藤枝倉庫(株)と藤枝茶の産業革命の始まり

〔藤枝倉庫株式会社のはじまり〕

藤枝倉庫株式会社の石の蔵は大正2年(1913年)に建設され、軽便鉄道で榛南地方から貨物を運びました。

北は大井川上流部の千頭・川根から茶・椎茸をこの【石の蔵】に集め、一大集散地として発展。今日の藤枝がつくられました。このような観点から藤枝倉庫の【石の蔵】は、このような歴史を語る藤枝近代産業遺産といえます。

軽便鉄道路線図

大正6年はヨーロッパの第一次世界大戦が始まり、藤枝から送られる産物の輸出は急増します。藤相線(軽便鉄道)による榛南地方の産物が集まり、大井川電気索道により千頭・本川根の産物が集まりました。

〔静岡県の産業革命のはじまり〕

茶ばさみができたのは、高林健三の粗揉機が発明されて17年後のことでした。
手揉みの各工程が製茶機械として完成しました。
高品質のお茶は手摘みであったが、旺盛な緑茶需要に対応した茶ばさみが昭和の初めに発明されました。

(公社)農林水産省・食品産業技術振興協会 ホームページより転載

藤枝・志太産のお茶は横浜港の外国商館から最高級の「JAPAN TEA」と評価されました。
この名誉を受けた志太・藤枝の茶農家は一層、茶づくりに邁進しました。
最も体力を使う荒揉みの工程を粗揉機が担い、この機械の発明は、次の手揉み工程の機械を後押しします。
静岡独自の産業革命が始まります。
茶摘みも高級茶の手摘みと安価な茶に茶ばさみが開発されます。山の茶農家は水車の動力を使用します。

製茶機
【蘭字】日本茶は、明治から大正時代にかけて欧米、特にアメリカに向け多く輸出されました。その輸出用茶箱に貼られたラベルを蘭字といいます。「蘭」は、中国語で「西洋」、「字」は「文字」を意味します。 輸出国に日本茶のイメージをわかりやすく表現するため、産地や種類を絵や欧文とともにデザインしたラベルが考案されたのでしょう。 蘭字は当時の日本の浮世絵の技術を生かし、木版の多色摺りで刷られた図柄には、日本の独自性や生活文化が表現されており、デザイン性においてもすぐれていました。輸出用という限られた商品用に使用されたため、現存するものは少なく、日本の茶業史はもちろん、グラフィックデザイン史においても貴重なものといえます。
茶箱
蜜柑箱
志太地区では「男の子のおひなさま」と呼ばれる天神雛があります。天神雛は学問の神と信仰された天神さま(菅原道真公)にちなんだもの。
全国的に男子誕生のお祝いに天神雛を飾るのは珍しく、静岡県内では志太地区と富士川周辺に限られた風習です。特に志太地区では【お茶摘み】の農繁期と重なるため、5月の端午の節句を女の子と同じ桃の節句(4月3日)に飾る伝統があります。

〔手揉み茶の機械化〕

輸出向けの手揉みでは、1日に1人3〜5kgの製茶が精一杯でした。

機械化が必要と考えた高林健三は、機械による製茶法を考え始めました。
1878年(明治11年)48歳の時でした。
1885年(明治18年)高林はまず茶葉蒸器など、3種の製茶機を発明、特許を取得。
ちょうどこの年わが国に特許制度が発足し、1号は軍関係で、彼の特許はその2〜4号でした。
この製茶機械をきっかけに静岡県内の製茶の開発が続き、それは民間による静岡独自の産業革命の始まりといっても過言ではありませんでした。

高林健三 茶葉粗揉機の発明【絵:後藤 泱子】
(公社)農林水産省・食品産業技術振興協会 ホームページより転載